それでは、某宿題の解答を記しておきます。
昨年度、江南区郷土資料館で開催しておりました古文書学習会の<実践編>で読み進めてきた『新発田領八ヶ村・御料所十二ヶ村 出入双方訴状・返答書写』の第六通目の文書について、
(1)差出の3人はどのような立場の人と考えられるか?
(2)宛先の人物はどのような立場の人と考えられるか?
(3)この文書は、どのようなことを伝えたかったのか?
を考えてみましょう、というのが宿題でした。
ヒント(01)に翻刻を、ヒント(02)訓読文を掲げておいた通り、この文書の差出は、
「 十二月 奥田所右衛門<書判>
柴山八太夫 <書判>
坂井軍太夫 <書判> 」
となっています。
また本文中で、新発田領である城山村のことを「当領城山村」と記していることから、差出の3名は、新発田城主の溝口家の家臣(いわゆる新発田藩士)と考えられます。
そこで、一昨年度の古文書学習会で『御法度書写』を講読した際にもお話ししましたが、江戸時代中期(寛政年間)以前の溝口家の家臣を調べる際は、『世臣譜』という書物を紐解いて調べます。
『世臣譜』は、写本が新発田市立歴史図書館などに所蔵されており、新発田市史資料・第2巻(新発田市史刊行事務局、昭和40年)に翻刻されています。
では、まず最も上位に署名している(*)「坂井軍太夫」という人についてみていきましょう。
(*)複数の差出者が連署する際、その名前が文書の左側の日付より左上段(奥上)に記されている場合は右側が上位者、同じく日付より下に記されている場合は左側が上位者、となるのが原則である、ということは以前にお話ししました。
坂井軍太夫については、刊本『世臣譜』P14下段に、次のように記されています。
「息、初(はじめ)亀大夫と云(い)ひしが、軍大夫正紀に改(あらため)<この名は道治公より賜(たま)ひしなり>、部屋住たりし享保十八年十一月廿八日、御作事方諸職人支配となりぬ。元文二年十一月七日、御役御免あり。同三年三月六日、沼垂町支配となり、同五年六月十六日、郡奉行添役(そえやく)に転じ、寛保二年四月廿八日、相続して二百五十石を玉(たまは)りぬ。……延享元年十月廿七日、武頭に至り、元〆郡代役兼役せり。……」
この記事から、坂井軍太夫は、実名を「正紀」といい、まだ坂井家の家督を相続していなかった時から様々な役職に抜擢され、元文5年(1740)6月16日、溝口家の村落行政を管掌する郡奉行に添役となり、寛保2年4月28日、坂井家の家督を相続した人と分かります。一連の新発田領と幕府領の用水相論は、寛保2年の8月に起こっているので、この当時、坂井正紀という人は、まだ家督相続をしたばかりの年若い人であったことになります。
同様に、『世臣譜』を紐解くと、「柴山八太夫」は、実名を「政房」といい、元文4年(1739)3月20日より郡奉行添役を務めていた人物(刊本『世臣譜』P51下段)、「奥田所右衛門」は、実名を「保廉」といい、寛保2年2月28日より郡奉行を務めていた人物(『同』P74上段)と分かります。
郡奉行(こおりぶぎょう)というのは、農業政策振興局長のような重役で、添役というのは、その補佐役です。
三名のうち、最も年が若いのは、坂井正紀ですが、坂井家は、溝口家の主人である織田信長に仕えていた坂井式部という人が溝口家の家臣となり、「溝口」の名字まで許された家の分家筋で、代々侍組を指揮する「武頭」を務める重臣の子息なので、最上位に署名しています。
ということで、問題の第六通目の文書の差出の3人は、「新発田城主の溝口家の郡奉行と(その補佐役)」ということになります。
(→続く)