菜の花畑―歴史都市新潟研究会のブログ

歴史都市新潟研究会・杉山節子のブログです。はてなダイアリーの終了により、こちらに移ってきました。よろしくお願いいたします。

某宿題の解答(2)

某宿題の解答の続きです。

 

昨年度、江南区郷土資料館で開催しておりました古文書学習会の<実践編>で読み進めてきた『新発田領八ヶ村・御料所十二ヶ村 出入双方訴状・返答書写』の第六通目の文書について、

 (1)差出の3人はどのような立場の人と考えられるか?
 (2)宛先の人物はどのような立場の人と考えられるか?
 (3)この文書は、どのようなことを伝えたかったのか?

を考えてみましょう、というのが宿題でした。

 

(1)の解答・解説は、このひとつ前の記事をご覧ください。

 

さて、(2)宛先の解説に移ります。

問題の文書の宛先には、「喜多川要太兵衛様」と記されています。

 

文書の中で、石瀬代官所が管轄している蒲原郡の幕府領(「御料所」)について、「その御支配所割野組村々」と記していることから、「喜多川要太兵衛」という人は、石瀬代官所の役人と分かります。

すでに昨年度の古文書学習会で説明した通り、当時の石瀬代官は、水野彦四郎忠央(ただひさ)という江戸幕府の旗本です(→実践編・第4回レジュメ参照)。この文書の宛先である「喜多川要太兵衛」は、その部下である「石瀬代官所の役人」ということになります。

 

解答(1)に記したように、問題の文書の差出者3名は、新発田城主の溝口家で郡奉行を務める人々です。彼らが、代官その人(水野忠央)ではなくその部下に宛てて文書を出しているのは、次のような理由です。

江戸幕府の代官は、江戸に戻れば200俵程度の家禄の勘定所の役人に過ぎませんが、代官として赴任すると、一人の代官(一つの代官所)が約5万石の江戸幕府の直轄領を管轄します。そのため、幕府の代官は、ちょっとした大名並みの処遇を当然のように求めたため、大名家の郡奉行からの申し入れの応対をするのは、代官の部下の一役人、というわけです。

このような江戸幕府の代官と代官所の仕組みについては、『旧事諮問禄』という書物に明治時代になってからの証言が掲載されているので、読んでみてください(→岩波文庫『旧事諮問録-江戸幕府役人の証言』下)。

 

(→続く)